四年もの抱擁


 時計が六時を打つ音で目が覚めた。
 窓越しのあたたかな日差しに少しだけまどろむつもりが、つい眠り込んでしまったらしい。ぼんやりとした夢の名残がまだ頭の芯をとらえていて、瞬きさえ酷く億劫だった。
 冬陽の恩恵は疾うに去ったと見え、あたりはすっかり暗くなっている。
 ふと窓をみれば、外では白いものがちらついていた。
 雪が降っているのだ。
 そこでようやく寒さを感じ、私は立ち上がってストーブに火を入れ、ついでに部屋の明かりをつけた。部屋が明るくなり、それだけですこし暖かくなったような心もちになる。
 冬生まれだから雪、と安易に付けられた名前を裏切るようだが、私は結構な寒がりだ。冬生まれの子どもは寒さに強いというのは、あれはまったくの迷信である。
 ストーブの火が実際の暖かさをはもたらすにはまだ時間がかかる。私は少し思案して、押し入れから毛布を引っ張りだした。頭からすっぽり被るとそれで少し満足し、改めてストーブの前に陣取る。夕食のことが頭をよぎったが、面倒になって考えるのをやめた。とにかく部屋が暖まるまで、ここでこうしていようと決める。
 あちらはもっと寒いのだろうな。
 あかあかと燃える炎を眺めながら、私はふとそんなことを思った。生まれ育った村のことは、普段なるべく考えないようにしているのだが、こういう風にふとした拍子で思い出してしまうことがある。
 努力のかいあって、記憶はほとんどが具体性に欠け、漠然とした印象や感情ばかりが泡のように浮かんでははじける。そんな茫洋とした思い出は、いつも必ずたったひとつの記憶へと私を導くのだった。



 同い年の友と二人、冒険と称して裏山へ分け入り、枯れ井戸に落ちたことがある。
 深い井戸の底が柔らかい腐土であったために、私たちは怪我ひとつしなかったが、つるべが腐り落ちていたせいで地上にのぼることができなかった。
 見上げてみれば、真円に切り抜かれた空は刻一刻と暮れていく。赤い夕焼けはすみれ色になり、群青を通りすぎて深い藍に染まり、星ひとつない黒い夜空へと表情を変えた。
 夜行性の鳥や獣の声は鋭く響き渡り、井戸の石壁に反響して私達を怯えさせた。吹き下ろす夜風は初夏だというのにひどく冷たくて、私たちは親に死なれた子猿のようにひしと抱き合って、互いの心許ない骨格と体温だけをたよりに、ながいながい一晩を過ごした。恐怖と寒さとで歯の根が合わず、カチカチと硬い音を立てていたのを今でもはっきりと覚えている。
 結局つぎの朝、私たちは近くを通りかかった木こりによって助けだされたのだが、親からの厳しい叱責を覚悟していた二人は度肝を抜かれた。私たちは親は勿論、村中の人々から異様な歓迎を、そう、感涙さえもを受けたのである。
 枯れ井戸の底で私たちが一晩を過ごしているあいだ、ふもとでは四年もの月日が経っていたのだった。

神隠しに、遭ったのだということになっていた。




「不用心なやつだな」
 あきれたような声が背後から降ってきて、私は不毛な回想から引きずり戻された。声の主が誰であるかはすぐに知れた。
 春先に生まれたから鶺鴒と、春を呼ぶ鳥の名前を付けられた幼なじみは、自分の家に帰ったかのような態度で玄関を上がり、安普請の廊下を軋ませて部屋に入ってくる。
 相手がわかればなおさら振り向くのも億劫で、ストーブをみつめたまま「なにが」と答えると、「鍵だよ。かけておけと言っているだろう」とあきれたままの声が律儀に答える。私と同じく田舎者のくせをして、妙に戸締まりにうるさい。
「いいんだよ別に。客なんてこないし、泥棒もこんなあばら屋に来やしない。それにかけたってお前、開けるだろう、鍵を持っているのだから」
「持ち歩いているさ、たまには使ってやりたいもんだ」
 りん、と音がして、目の前に鍵がぶら下げられた。真鍮の、簡単な形をした鍵は、私の家の鍵だ。合鍵ではない。
 いつだったか、ずいぶん以前に留守番だか戸締まりだかを頼んだとき、返してもらうのを忘れていたらそのまま鶺鴒の持ち物になっていた。鈴をつけたのも私ではない。私はといえば戸締まりの習慣がなく、またひどく簡単な錠前なのでその気になれば針金一本で開けられるからと放ってある。
「そんなに戸締まりを気にするのなら、帰りにかけていってくれればいい。鍵も使えて一石二鳥だろう」
「それはちがうな雪。鍵の第一義は開けることだろう」
「そうだろうか」
「そうだとも」
 りん、ともう一度、鈴の音を鳴らして鍵が引き上げられた。
「それで?」
 隣に座り込んだ鶺鴒に少しだけ場所を譲り、私は用向きを尋ねた。鶺鴒は両手のひらをストーブに向けながら、うん、と言ってすこし首を傾げた。
「用というほどのことはないんだ」
「そうか」
「ただ急に、お前の顔が見たくなった」
 嘘、ではない。
 だがその言葉が真実でもないことを、私はとうに知っていた。
 鶺鴒が急に思い出したのは、私が先ほど思いを巡らせていたのと同じ、あの心細い夜の記憶に違いない。普段は脳裏をよぎりもしないくせに、あの不思議な一晩は時折私達の心をぐしゃぐしゃにかき回して無力な子どもに引き戻していく。
 私達は同じ怪物を身のうちに飼っていて、それはふとした瞬間、何の脈絡もなく、呼び合うように暴れだすのだ。
 だから私はことさらに軽い調子でこう返す。
「それは奇遇だな。私もちょうど、お前の顔を見たいと思っていたんだ」
 ふ、と息を漏らすように鶺鴒が笑う。合わせ鏡のように私も笑った。そのままどちらからともなく顔を寄せ、やわらかく頬を合わせる。
 私達はいつしかゆるく抱き合っていた。とても、とても静かな抱擁だった。互いの肩に首を預け、立てた膝は胴を挟んで、隙間なく胸を合わせて手のひらは肩甲骨の下あたりをじんわりと温めた。体温が混ざり合い、拍動が歩み寄る。
「ゆき」
 確かめるように名前を呼ばれる。鼻に抜けるいい加減な声で「うん」といらえれば、もう一度呼ばれた。
 そういえば、鶺鴒はあの時もしきりに私の名前を繰り返し呼んでいた。
 ただしあの時はこんなにも穏やかな気持ちではなかった。瞼をぼんやりと落として静かな呼吸をくりかえしながら、私はふと思いを巡らせる。
 あの夜は、ひたすらにぎゅうぎゅうとしがみついていたのだ。お互いの体だけが頼りだった。頼りない骨格と肉と、血のめぐる鼓動と乱れた呼吸だけが、何も見えない真っ暗な井戸の底で、私達が私達を確かめるためのただひとつのよすがだった。。
 四年にも渡る長い長い抱擁。私達はいまでも、井戸の底で助けを待ち続けているのかもしれない。




 呼吸はゆっくりと薄闇に溶けていく。暖炉の薪が爆ぜる音と、時計の秒針が進む音だけが雨だれのように耳を叩くのをぼんやりと聞いていると、まるで世界がこの部屋だけを置き去りに終わってしまったかのような錯覚に陥りそうになる。
 平穏から不穏へと、目盛りがゆっくり傾きかけていく。すでに一度、置き去りにされているのだ。二度目がないと誰がいえるだろう。
 ほとんど眠っているように穏やかな、あたたかい体をぎゅうと抱き直す。
「鶺鴒」
 呼べば私を抱く腕がとろとろと動き、やさしく背を撫でてくれる。すっかり息のあったやり方に苦笑が漏れた。あちらが呼べばこちらがこたえ、こちらが縋ればあちらが宥める。同じ体温、同じ拍動。今私達はほとんどひとつのものだった。
「なあ鶺鴒、どうして私達はひとつになれないんだろう」
「うん…」
 こんなにも温かく、静かで、穏やかな抱擁ができるというのに、なぜ私達はいつまでも融け合うことが出来ないのだろう。輪郭を滲ませてひとつのものになってしまえば、もうこんなふうに寄る辺ない心持ちになることもなくなるだろうに。
「きっと、ふたりでなければならないんだろう…」
 ほとんど眠ったようなにおいをさせながら、鶺鴒がつぶやいた。
 そういうものなんだろうか、と返すがいらえはない。体にかかる重みが、眠りに落ちたのだと知らせてきた。
 そういうものなのだろうか。私は胸の内で繰り返す。
 そういうものなのかもしれない。少なくとも私には鶺鴒だけが、鶺鴒には私だけが、この世界でたったひとり、まやかしではない確かなほんとうだった。

 ストーブの火はチラチラと揺らめきながら、部屋を暖め続けている。指先がとてもあたたかい。もう眠っても良いのだろう、私は眠る鶺鴒との抱擁をそのままに瞼を下ろすことにした。

 次に目が覚めた時がたとえ百年後であったとしても、私達はこうして生きていくのだろう。

(2014.07.27)

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