わたしたちいつもあなたのそばにいる


 二階の窓から屋根に登ると、そこから海が見える。静かな夜には、かすかにさざなみの音が聞こえる。
 夏の盛りも過ぎたころ、浜ににぎわう人もなく、さざなみはただ満ちては引き、また満ちて引く。
 リンコはあるかなきかの潮音をききながら眠るのが好きだ。満ちて引くリズムは胎内で聞く母の心音だともいう。
 そのぬくもりも覚えていない母の心臓も、海の底でこんなふうに穏やかな音を刻んでいるのだろうか。



「それは無理な相談だろう」
 進路室の一角にある応接ブースで、リンコは担任教師と面談をしていた。
「転居などで通学できなくなったとか、やむを得ない事情でもない限り、私立から公立への転入は、そもそも許可されていないんだ」
「そうなんですか…」
「それに、転入には大前提として保護者の同意が必要だ」
 まだ若い教師はしかつめらしく釘を刺す。リンコと一回りも年は離れていないくせに、いや、だからこそだろうか、頑是無い子どもを諭すような口調を前面に押し出している。
「水吉の保護者とは三者面談でも会ったし、春にも話をしたが、このまま卒業まで責任を持って面倒を見るとおっしゃっていたぞ」
 リンコの保護者は冬の終わりに世を去り、リンコが成人するまでの後見役は伯父に替わった。
「そもそも、経済的には問題ないんだろう?」
「それは…」
(おばあさんは、リンコが大学を出るまでくらいの費用は残してくれているよ。だから安心してこれまで通り過ごしなさい)
 伯父のことばが頭をよぎり、言葉に詰まるリンコの気持ちを読んだように、担任教師は声色をあやすようなものに変えた。
「伯父さんに負担をかけたくない気持ちはわからんでもないが、あと一年半のことだ、辛抱しなさい」
 水吉は成績も悪くないから、国立大学で奨学金もらう手もあるぞ、と、そこだけは妙に熱心に説かれ、リンコは適当に相づちを打って面談を終えた。
 校舎棟を出て、渡り廊下を歩く。夏休みの校舎では、外部受験を控えた高等部三年生がぴりぴりした空気を発していて、知らず急ぎ足で生活棟に向かった。
 寮生にしか知らされていない暗証番号を打ち込み、足早に自室へ向かう。高等部一年生の4人部屋は、夏休みのただ中にあってリンコの一人部屋へと様変わりしていた。
「やっぱ駄目か…」
 二組ある二段ベッドのうち、窓側の下段にぽすん、と腰をかけ、リンコは落胆の息をついた。
 そのままずるずると横になると、目を閉じて耳をすませてみる。
 祖母の家では、こうやっているとかすかに波の音が聞こえてきて、その音に身を委ねていればすっかり安心することができた。しかし、山がちのこの学び舎では、いくら聴覚を研ぎすませても海の音は聞こえない。
 祖母が他界してからというもの、リンコはあの音をひどく欲していた。



 リンコの両親は海で死んだのだそうだ。
 お盆休みに家族三人で祖母の家へ行った帰り、海沿いの道で玉突き事故に巻き込まれ、ガードレールを突き破って海に飛び込んだのらしい。
 「だそうだ」「らしい」といちいちが伝聞形なのは、そのときリンコはまだ2歳足らずで、なにも覚えていなかったからである。
 両親はほぼ即死であったが、幼い子どもは奇跡的に無事だった。痛ましい事故の報は数日の間三面記事をにぎわせたが、子どもが検査入院を終えて母方の祖母に引き取られるころには、始めにトラックに追突した運転手の書類送検も終わり、まるで潮が引くように収束していった。
 リンコの記憶は平面的だ。まるでその時の新聞記事のように、いやより一層客観的で、悲劇の当事者たる実感が欠落している。それに付随するべき海への恐怖や嫌悪もない。
 海水浴、潮干狩り、遠泳合宿、船の旅。
 事故を知る人はみな驚いた。「記憶がないので」そう言えば、ああそういうことかと頷く大人たちが頷きながらも戸惑うのが透けて見えた。
 しかし海はいとおしい。命が飽和した磯のにおい。小さな蟹たち。ふしぎなフナムシ。大きな魚。命の在処のわからない、ひらひら白いくらげたち。寄せる波、返す波。離岸流の恐ろしさ。拾った桜貝を畳の上に並べながら、すべてを報告したがってしゃべり続けるリンコに、やさしい祖母は目を細めてうなづく。
「好きなものがあるっていうのは、いいことだねえ」  リンコはその一言、砧で打たれた布のような柔らかい声が大好きだった。すべてがゆるされていることを教えてくれる声音だった。
 そうだねおばあちゃん、そのとおりだね。
 わたしは海がすきでよかったね。



「夏休みはうちにくるかい?」
 そう言われたとき、リンコはとっさに「寮に残ります」と答えていた。
 全員がほぼ初対面の、やや気まずい三者面談のあと、駅まで伯父を送る道すがらのことである。
 リンコとしては、夏休みには例年どおりあの家に帰るつもりでいたのだが、伯父はそういう風には考えなかったようだ。
「友達が何人か寮に残るから、みんなで過ごそうって約束していて」
 伯父がなにか言う前に、リンコはめまぐるしく頭を働かせて言葉をつけ足した。実際には、めまぐるしいのは脳内だけで、声も震えず視線もふらつかず、少し残念そうな表情さえ浮かべて驚くほど自然に嘘をついていた。
 リンコの友人は、ほとんどが夏休みになると実家へ帰る。
「そうなのか」
 伯父は特に不審がることもなく頷くと、「そのほうが、気兼ねがなくていいのかもしれないな」とつぶやいた。妹夫婦が事故死したときに、遺された姪を祖母に押し付ける形になったことを、未だに気にしているらしい。初対面の場になった祖母の葬式の席で、伯母が済まなさそうに言っていたのをふと思い出し、リンコは小さな罪悪を胸に感じた。
「ごめんなさい」
 謝罪のことばに続いて、手紙を書きますねと付け加えたのは、その小さな罪悪感からだったのだろう。けれど伯父の家に滞在するつもりは毛頭なかった。



 改札の外から伯父を見送って寮に帰る道すがら、リンコは夏休みについて考えていた。
 2歳足らずで祖母に引き取られてからずっと過ごした家に、本当は帰りたかった。しかしあの家には今しいらが住んでいる。祖母は自宅の権利を二人の孫、つまりリンコとしいらに遺してくれたため、勤め先の寮を引き払い、春からひとりで暮らしているのだ。
 しいらと共に夏休みを過ごすことが問題なのではない。それを伯父夫婦に知られることが問題なのである。
 しいらは伯父夫婦の子どもだが、両者はもう十年ちかく絶縁状態であった。リンコはそれを、祖母の葬儀の席で知った。
 伯父夫婦はまるでその場にしいらなんて人間が存在しないかのように振る舞っていた。そしてしいらも同様に、さらりと彼らを無視していた。
 なぜそんなふうなのか、事情は以前にしいら自身の口から聞いていたものの、リンコには伯父夫婦の態度が理解できなかった。彼らがリンコに対しては非常に親身な態度であるだけに、一層違和感がつのる。
 当事者が修復不可能と判断している関係を、リンコがでしゃばってどうにかするのもおこがましく感ぜられ、思わずついた嘘だった。
(ああ、でもしいらと海へ行きたかったな)
 寮の玄関で靴を脱ぎながら、リンコは去年の夏を思い出す。
 お盆も終わった寂しい海岸を、とりとめもない話をしながらひたすら歩いた。
 台風が接近していて沖は荒れているようだったが、浜辺に寄せる波は奇妙なほど穏やかだった。
 寒天のような質感の波が不意に盛り上がり、不意に崩れては押し寄せて引く。
 ざ。
 ざざーん。
 ざざざざざざ。
 ざ。
 波の音が満ちる。規則正しく寄せてはかえす様子を穏やかに見つめて、しいらは言った。
「私、海が好きよ」
 その「好き」が、なにか特別なものであることは声の調子でわかった。しあわせの中に、ほんの一滴か二滴かなしみを垂らしたような、どこまでも透明な声だった。
 だからリンコは少しためらった。ためらったが結局言った。
「あたしも」
 するとしいらは嬉しそうに笑って、そろそろ帰りましょうかと言った。まだ日は高かったが、二人は海岸を後にした。
 帰り道の途中でソフトクリームを買って、チョコレートとバニラを一口ずつ交換した。
 去年は祖母も一時帰宅していて、お土産にわらび餅を買って帰った。
「来年は三人で、夜の海を見に行きましょうよ」
 そんな約束をした。



(楽しかったな)
 奇妙な姿勢でベッドに横たわったまま、リンコは記憶をなつかしくたどる。
 たった一年前なのに、もうずいぶん昔のことのようだ。
 あの時に描いた「来年」はここにはない。疑いもせず、三人で夜の海を見に行くつもりでいた去年のリンコは、いま寮のベッドに臥し目を閉じているリンコとはまったくの別人であった。
 それはきっと、ふた親を海に残してきた2歳たらずの子どもが、もはや母親の胸に抱かれることがないのと同じことなのだろう。
(波の音を聞きたい)
 強くそう思った。祖母の家で聞く、静かな夜のかすかなさざなみ。あるかなきかの潮の音。ただ満ちて引き、満ちては引く、変わらぬリズムを聞きたいと。
 すると。
 ざ。
かすかに、
 ざざーん。
鼓膜を爪の先でくすぐるようなかすかさで、
 ざざざざざざ。
 ざ。
確かにさざなみの音が聞こえた。
 リンコは反射的に息をひそめた。耳を澄ませて、まぼろしのような音を追う。
 ざ。
 ざざーん。
 ざざざざざざ。
 ざ。
 ざ。
 ざざーん。
 ざざざざざざ。
 ざ。
 ざ。
 ざざーん。
 ざざざざざざ。
 ざ。
 ざ。
 ざざーん。
 ざざざざざざ。
 ざ。
 いつしか、満ち引きのリズムに合わせて呼吸をしていた。
 ゆっくりと吸って、長く吐いて。
 繰り返すうちに頭の奥がゆっくりと揺れる。
 いつのまにか、眠っていた。



 わたしは海がすきです。
 海は父。
 海は母。
 海は命。
 海は死。
 ……私は海が好きです。



 浅い眠りの表面にたゆたう陶酔の中で、ふと想像する。暗く粘りつく夜の海に、静かに沈む両親と、その胸におさまる握りこぶしほどの心臓を。
 本当は、両親のなきがらは車と一緒に引き上げられた。火葬場で焼かれた骨は、一抱えほどの壺に入って先祖代々の墓に納められている。
 理解している事実を超えて、リンコの想像は海を広がる。ふたつの尊い心臓は規則正しく、とく、とく、とく、とく、満ちては引く潮のリズムで送り続ける。
 おやすみ。
 おやすみ。
 おやすみ。
 ……さよなら。
 そして、リンコは胎内に還る。
 おやすみ、かわいいこ。
 なにも心配いらないからね。
 満ちては引き、また満ちて引く。リンコの中にある、リンコだけの海の底で。

(2011.09.10)

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