見る間に過ぎる春の佳き日に


 吐く息が白く広がる。山の空気はまだ春を感じさせるほど緩んではいなかった。
 僕は懐かしい細道を足早に歩いていた。花が咲いていないからだろうか。かつてあれほど賑やかだった桜の木々は不気味なほどに静まり返っている。僕の足音と、呼吸の音と、それから子供の声だけが、神聖な音楽のようにこだましていた。
ーーかえして。
 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声が、何度も繰り返すのが聞こえる。鳥肌が立つかわりに胸が痛くなる。僕が生まれる前から、こうして訴え続けている声。
 ひと一人通るのがやっとの道を抜けて、目指す場所に着く。少し開けていて、ひときわ大きな木が生えている"とっておきの場所"。あの時花びらが敷き詰められていた地面は、今は枯れ葉と霜に覆われて鎮まりかえっていた。
 ここへ来るのは何年ぶりだろう。賑やかな春の花のなかでも、桜の花は一番苦手だった。短い盛りの時間を笑いさざめき、僕をからかう軽い言葉を花びらと一緒に降りしきらせる。
 植物は子どもが好きなんだよ。
 出会って間もない頃、そう言って困ったように笑ううめを思い出す。植物はみんな子ども好き、それはいいとしても、構ってほしくていじめるようじゃあ、まるで悪ガキじゃないかとその時は思ったのだ。
 だけど今は、違う考えが頭に浮かんでいる。
 ひんやりとした紅梅の精の手を思いだしてぎゅっと手を握り込むと、僕は大きく深呼吸をして下げていた鞄を持ち直した。ひときわ立派な桜の木の根元を、これから掘り返さなければならない。
ーーかえして。
 舌足らずなささやきがすぐ近くで聞こえる。
「うん、返すよ」
 僕は初めて答えを返した。


 ざくざくと機械のように腕を動かして、桜の根元を掘り返す。
 張り巡らされた根を傷つけないように神経を使いながらの作業は、予想していたよりもずっと骨が折れるものだった。なかば事後承諾だったとはいえ、安請け合いした自分を少しだけ恨む。
「ねえ、さくら」
 ふと思いついて僕は目の前の木に話しかけた。庭の紅梅にも心があるのだ。この山の桜にもあっておかしいことはない。
「どうしてこの子を取り込んでしまったの?」
 責めるつもりで聞いたのではなかった。子どもが好きで、いたずら好きな桜の木。僕にするようなからかいだけで済ませておかなかったのはどうしてだろうと素直に思ったのだ。
「そんなにこの子が憎らしかった?」
(ちがうわ)
 だしぬけに、華やかな女の人の声が降ってきた。返事を全く期待していなかった僕は驚いて顔をあげたけれど、桜の木は人の姿を見せるつもりはないようだった。
(憎らしかったんじゃないわ)
 同じように若い女の人でも、うめとは全く違う甘やかな声で桜の木はそう言った。
(好きだったの。ずっと一緒に遊んでいたかったの)
 やっぱり。再び手を動かし始めながら僕は思った。いくら言葉が通じたとしても、木と人とは違う。酷い目に遭ってきたきた手前凄く認めがたいが、桜に悪意などなかったんじゃないかという僕の考えは当たっていたようだ。
 さやさやと、桜の木々がざわめく。一人のような、何人がコーラスをするような不思議な響きは、以前僕を悩ませたように不穏なささやきではなく、ただ美しい歌のようだった。
(あの子も言ったわ)
(もっと一緒に遊びたいって言ったわ)
(だから考えたの)
(考えて、考えついたの)
(わたしたちと同じになれば、いつまでも一緒にいられるわ)
(いつまでも一緒に遊べるわ)
(なのに)
(それなのに)
 手を止めずにいた僕のシャベルが、固い何かを突きあてた。軍手をはめた手で慎重に土を取り除いていく。
(あの子は泣いているばかり)
(かえしてくれと泣くばかり)
 そこには桜の根にがんじがらめにされた、小さな骨が埋まっていた。



 無邪気で獰猛な裏山の桜たち。
 子どもが好きで、遊びたがりで、悪意なんかちっともない。
 恐ろしさに背筋がぞくっとした。けれど、うめを思い出して深呼吸をする。頼む、と言って僕の目を覗き込んだ黒々と光る目は、お守りのように心強かった。
「あなたたちは、遊び方を知らなかったんだね」
 逃がすまいというように絡み付いた根を丁寧に外しながら、僕は桜に話しかけた。
「人の子どもは、桜と遊ぶのが好きだよ」
 小さな頭蓋骨をそっと持ち上げて土を払う。鞄から野菜を保存する透明な袋を取り出し、中身を地面に置く。うめに教わって裏庭の池からとってきた蓮の葉だ。瑞々しい葉の上に黄ばんだ骨をそっと置いて、また桜の根と格闘を始める。
「だから返してやってよ」
 随分と時間をかけて、そして最後の方には邪魔な軍手を脱ぎ捨てて、僕はいくつかの骨を蓮の葉に積み上げると土を埋め戻した。
 桜たちは戸惑うようにさわさわと揺れている。ほんとうに戸惑っているのだろう。
 あの声の持ち主が、すぐそばに来ているのがわかった。息を潜めるようにして、自分の骨を見つめている。
 仏壇からくすねてきた線香に火をつける。細い煙があがった。
「この煙をたどって、帰るんだよ」
 うめに教わったとおりに、僕は話しかけた。姿こそ見えないけれど、確かにそこにいる場所を見つめながら、できるだけ優しい声で続ける。
「骨と、肉のかわりに蓮の葉を君に返すよ。もう大丈夫」
ーーふふ。
 ため息のような笑い声が聞こえた。細く、でもはっきりと立ち上る煙と一緒に、子どもの気配も少しずつ薄れていく。
(さよなら)
 桜が呟くように枝を揺らしたのと、ちいさな骨が塵になって消えてしまったのは、ほとんど同じ時だった。



「ありがとう」
 不気味なくらい素直に、梅の精は僕に頭を下げた。ことが終わってしまえば、たいした事をしていないような気がして僕は居心地悪く肩をすくめる。
 しおらしいうめは正直不気味だった。
「お前には大きな恩が出来た」
 僕の心中など読めるはずもなく、彼女は大まじめにそんなことを言う。僕はなんだかおかしくなってしまった。
「むしろコレで対等なんじゃない?」
「対等?」
「あなたは僕の禍根を取り除いてくれた。僕はあなたの心残りを取り除いた。これで対等」
 頬が緩むのを押さえきれない。年経た梅の木と中学生が対等だなんて、自分で言ってておかしすぎる。
 けれどうめはそう思わなかったようだった。
「なるほど」
 唇の端をぐいと上げて、およそ外見と似つかわしくない偉そうな笑い方をすると、白い手をあげて僕の頭をくしゃりと撫でた。
「生意気だが悪くない。対等にいこうじゃないか」
 宝石みたいにきらきらと目を輝かせてそんなことを言う。長いまつげがなめらかな頬に月の影を落としていて、不意打ちのように心臓が胸をたたいた。
「あ、その前に、一ついいかな?」
 僕はさりげないふうを装って頭を傾けた。頭を撫でるのを中断させられた格好のうめは、不満そうに手をひらひらさせながら、律儀に「なんだ」と聞いてくれる。
 口を開く前には、大きく深呼吸をしなければならなかった。
 これから言おうとする台詞はそれくらい不遜で、勇気のいるものだった。もしかしたら怒らせるかも。それどころか酷い目にあうかもしれない。
 でも、もしそれが受け入れられたら。
 僕はなだめるように胸を撫で下ろして、できるだけ平静な様子で言った。
「うめって名前、いただけないな。僕が新しく名前をつけていい?」

おわり

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