懐くみたいに花弁は降って


 反射的に振り返った僕は、控えめに表現すれば「ものすごくびっくり」した。
 強いまなざしをこちらに向けているのは、若くてきれいで、そして思い切り時代錯誤な格好をした女の人だった。
 高く結い上げられた髪は黒く長く、月明かりにつやつやと光っている。赤のグラデーションを重ねた着物のような服は、袖も裾も長い。
 涼しく切れ上がった目を険しく細め、彼女は口を開いた。さっき見ていた紅梅の花に似た赤く小さな唇からは、こんなせりふが飛び出した。
「ヒトに向かって“最悪”とはいったいどういう了見だこのガキ。それでもイブキの孫か?」
 いかにもお姫さまっぽいおしとやかな外見を裏切る威勢のいい啖呵にも驚いたが、さらに驚くべきはその内容だった。イブキというのは祖父の名前だが、こんな年齢の人に呼び捨てにされるはずもない。というかそんなに若い知り合いがいたなんて聞いたこともない。それに、彼女はなぜ、僕が孫であることを知っているのだろうか?
 さっきの「最悪発言(注:誤解)」にやたらと憤慨していることといい、何の前触れもなく突然登場したことといい、あたりに漂うわざとらしいまでの梅の香りといい、これはまさか……。
「おい、何ぼんやりしてる。ヒトの話聞いてんのか」
「え、でもヒトの話ってあんた人じゃないでしょ……って、ええええええ!?」
 半分上の空で返事をしていた僕は、自分の言ったことに自分で驚いて叫んでしまった。
「うるさい、いちいち揚げ足を取るな!」
 美しい梅の精は、不機嫌もあらわに言い放った。


 梅の精なんて本当にいたのか。姉ならば飛び上がって喜ぶのかもしれないが、僕には戸惑うことしかできなかった。文字通り目の前に立ちはだかるこの新事実をどうやって受け止めればいいのか皆目わからない。
 ちなみに、彼女は僕の反応がたいそう気に食わなかったようだ(まあ当たり前だろうけれど)。ますます表情が険しさを増す。
「……ヒトを悪し様に言った挙句、人間じゃないとわかって絶叫するたあ失礼にも程ってもんがあるだろう。本気でどうこうしてやろうかおまえ!」
「ちょっ、ちが……誤解です!」
 びっくりしている場合ではない。どうこうって一体どうされるんだやばいぞ僕。(彼女にしてみれば)至極まっとうな怒号に、僕は慌てて弁解した。
「あんたの悪口じゃなくて、梅の花見てもう春が来るのかと思って、ユウウツになっただけで!」
「…………」
「むしろ梅は一番好きな花だし!」
「…………ふぅん?」
 誤解を解こうと必死で力説すると、彼女はあっさりと表情を和らげた。どうやら「一番」というのが気に入ったらしい。なんだか祖母や母に聞いていたのとはずいぶん印象が違うけれど、こちらのほうが余程梅の木のごつごつとしたイメージに近いし、精彩にあふれている。・・・あふれすぎの感もあるが。
 誤解が解けたようなので、恐る恐る名前を聞いてみると、「うめ」と返された。あまりにそのままな名前にコメントの仕様がない。
 気まずく沈黙していると、紅梅の精は細いひとさし指をあごに当て、ちょっと首をかしげた。上から下までまじまじと眺めて、
「お前は……トキだな。しばらく見ないうちに随分でかくなったもんだ」
「……あの、前に会ったことが?」
「生まれたばかりのお前を見たことがあるよ。すごくイブキに似ていて、驚いた」
「そ、そうなんですか……?」
「梅が好きだといったな、なのに春が嫌いなのか。何故だ?」
 機嫌が直ったかと思えば急に話が飛んだ。どうやらうめは、人間であるなし以前の問題でたいへんマイペースな性格らしい。祖父は小さい頃よく遊んでもらったというが、いったいどんな技を使って彼女のペースに合わせていたのだろうか。
 あまり答えたくない質問だったので、僕ははぐらかそうと試み、「梅はほらどっちかというと冬の花だし?」と言ってみたが、さすがに誤魔化せなかった。じっと見つめてくる強いまなざしに気圧され、誰にも言ったことのない秘密を渋々白状する。
 夢のようにきれいな梅の化身と、満月に届きそうな白い月だけが、僕の告白を静かに聞いていた。



 風もないのに花吹雪が舞っていた。
 危ないからと大人から立ち入り禁止を申し渡されていた細い山道は、地元のこどもにとっては絶好の遊び場で、僕はその日、生まれて初めて一人でそこへ入った。姉は風邪をひいていて、外へ出してもらえなかったのだ。
「おみまいに、花びらをいっぱい取ってきてあげる」
 一歩そこへ足を踏み入れると、視界はぐるりと薄紅色に霞んだ。むせ返るような桜の花の香りが、あたりに立ち込めている。姉や友達と一緒に来たときとはまた違う、奇妙な緊張感がそこに満ちていた。僕は足音を忍ばせてそっと歩いた。
(おいで、おいで)  どこからか空耳が聞こえる。さやさやと、くるくると、華やかな甘い笑い声が、僕の耳元を掠めて散っていった。
(かわいい子、こっちへおいで)
(だめだめ、こっちよ)
(こっちだっだら)
花びらが僕を追いかける。懐くように頬をかすめ、襟足をくすぐり、それでいて捕まえようとすると、指の間をすり抜けていく。
「うるさいな、だまってよ!」
怒ってそう叫ぶと、一層楽しそうな笑い声がさざめいた。あえかなはずの花の香りが一層濃さを増す。
僕を邪魔するモノたちが何なのか、そんなことはどうでもよかった。ただ僕は、きれいな花びらを持って帰らなければならなかった。僕から移った風邪のためにがらがらと嗄れた声で、「さくらがみたい」と泣いていた姉のために。なりふりかまわず僕は走った。もう少し奥へ行けば、この前見つけたとっておきの場所があるのだ。
(そっちへいくの?)
(おやめよ、つまらない)
(こっちのほうがいいよ)
「うるさいってば!!」
怒ってわめきながら、やっとのことでその場所に着く。少し開けていて、ひときわ大きな木が生えているとっておきの場所。道が細いので訪れる人もなく、積もった花びらがきれいなままなのだ。
僕は夢中でしゃがみ込み、花びらをすくってはポケットというポケットに詰め込んだ。耳元をくすぐる甘い声は頭から無視して、薄紅色の小さな花びらをもてるだけ持って立ち上がる。あとは一目散に帰って、姉の枕元にこれを撒き散らすだけだ。
もと来た道を帰ろうと振り返ったときだ。
(かえして)
 子どもの声がした。僕より小さい、まだ舌足らずな発音で、声はもう一度「かえして」と繰り返した。
「なにを?」
 さっきまでの華やいだからかいとは全く違う声に、僕は思わず問い返した。
(かえして…)
 消え入るような声で三度つぶやくと、声はかき消えてしまった。そういえば、うっとうしいほどまとわり付いていた声がいつの間にか消え、不気味なほど静かになっている。あちこちからこちらを窺うような感じがしたけれど、気のせいかもしれなかった。
 首をかしげながらも踵を返して一目散に走り出す。
 行きと違って追いかけてくる声はなく、僕は家に帰ると予定通りのサプライズを姉に披露したのだった。



 それがきっかけだったのか、以来春になるとあの華やかな声が僕にまとわり付いてくる。
 声は僕をせきたてる。
(かわいいこ、わたしとおいで)
(少しはこちらも構っておくれ)
(たまには一緒に遊んでおくれ)
(あまりつれなくしてごらん、おまえの家族にいたずらをするよ)
(わたしの降らせる花びらに、お前の家族が埋もれてしまうよ)
(おこった?)
(おこったよ)
(そんな怖い顔をしないでよ)
(おやおや、そんなに走ると転んでしまう)
(もっとゆっくりお帰りよ)
(くすくす)
(くすくすくす…)
 あるいはけしかけ、あるいは誘い、耳をふさげば笑いさざめく。蕩けるような囁くような華やいだ若い声で、甘く軽やかに紡がれる言葉のほとんどが中身のない空言だった。けれども頭から無視してかかれば、それは時々本当になった。
 花びらの絨毯に隠れた落とし穴に姉が足をとられて顔面から地面に激突したり、草の根に躓いた祖母が足を捻挫したりといった実害が出るたびに、僕は憤慨して見えない声に食って掛かり、彼女たちを喜ばせることになった。
 ひらひらと舞う花びらのように、裏と表をいとも簡単に入れ替えてしまう。彼女たちの言葉は僕を苛立たせるのだ。
 この声は、みんなに聞こえるものじゃないから誰にも相談なんてできない。そう思うと余計に腹が立つ。
「どうして僕にちょっかいを出すの?」
 声を荒げても、返ってくるのは華やかで甘い、さざめくような笑い声だけ。



「だから僕は、春が嫌いなんだ」
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