世界の切っ先


 0:

 彼女はね、僕のおかげで、世界が優しく思えるようになったっていうんだ。僕があたたかいから、自分もやわらかくてあたたかい生き物になったような気がするっていうんだ。僕に救われたって、ニコリともせずに言うんだ。からすの羽みたいな黒い目で、揺るがない強さで僕の目をみつめながらね。その目差しの強さにはじめはどぎまぎしたものだけれど、それが彼女の「くせ」みたいなんだ。一生懸命になると相手をじっと見つめてしまうみたい。なんだか子供みたいだろ? 

 同じ口でこうも言う。自分が僕に向ける思いは、やわらかくもあたたかくもない、煮え滾るようなカタマリで、憎しみにも似ているって。僕のことが大切で、傷一つつけず守りたくて仕方がないのに、全く同じ比重でひとかけらも残さず食い尽くしてやりたいと思うって。それくらい、僕に入れ込んでいるって、こともなげに言うんだ。ともすれば冷たく見える、作り物みたいな顔で、そんなことを言うんだよ。

 面白いことにさ、そういうのって一方通行にはならないんだよ。僕だって、同じくらい彼女に入れ込んでる。いや、もっとかな。僕は彼女に救われてる。今までこんなに人に執着したことはない。彼女が僕をほしがるように、僕も彼女の全部がほしい。僕が彼女に向ける思いは、彼女が思っているよりずっと激しいんだ。

 いままでの僕にとって、世界はただそこにあるだけだった。人はただ行き過ぎるだけで、時間はただ流れるだけだった。僕はいつも単なる傍観者で、まるでぬるま湯の中にいるみたいだった。けれど彼女は鮮烈な世界を僕にくれた。ぼんやりと煙のようだった僕を抱きしめて、形を与えてくれたんだ。

 そのことに、どれだけ感謝したか知れない。そして、どれだけそれを恨んだか。彼女に出会いさえしなければ、僕はこんな思いをせずにすんだのだからね。けれど、後悔はないよ。

 僕はとても幸福だ。



 1:

 村手真人の人生は、始まった瞬間から凍てつくような厳しさに彩られていた。何故そうなのか真人は知らないし、また知っても詮無いことだった。世界はその鋭利な切っ先を常に彼女の鼻先に突きつけていて、事あるごとにその凍てつくきらめきを目の端にちらつかせていた。彼女は自分のありようを恵まれたものだとは思っていなかったが、かといって不満にも思っていなかった。他の人生に興味がなかったといえば嘘になる。あたたかくやわらかな世界に憧れたこともあった。しかし憧れは憧れのままに、視線の先にそっと灯るだけだった。

 彼女に寄り添う人は多くいた。彼女は決して一人ではなかった。彼女の見つめる先にいる人々は、彼女を奇異に思いはしたけれども、まっすぐに見つめ返してくれた。彼女の近くに寄ってきて、寄り添ってくれる人もいた。できるだけ近くで、できるだけ長い時間をともに過ごそうとしてくれる人もいた。けれども誰一人として、真人と同じ場所に立つことはできなかった。彼女は決して一人ではなかったが、いつも孤独だった。そうして孤独を纏ったまま、村手真人は一生を過ごすはずだった。
 雲財暮光に会うまでは。

 暮光に出会ったことは、真人にとって大きな僥倖であり、また果てしなく不幸であった。彼は真人の見つめる先にいる種類の人間だった。その立つ場所は陽だまりのようにあたたかく、真綿のように柔らかだったが、まるで鏡の裏表のように、不思議と真人の立つ場所に似ていた。彼を得て初めて、真人は世界を恐れた。目の端で常にちらつく怜悧な切っ先を恐れた。暮光とともに過ごす、何事もない平凡で平穏な時間を心の底から望んだ。しかし、世界は常に彼女に対して非情だった。

 雲財暮光は死んだ。
 真人は生まれて初めて世界をのろった。



 2:

 何を泣いているのだい? どんなに声を押し殺したって、聞こえるものは聞こえるんだよ、うるさいったらありゃあしない。
 ああ、やっとこっちを見たね。おや、おまえ、私はお前を知っているよ。邪道の子だろう、ふうん、普通の子供みたいに泣くのだねえ。ああ、だから泣くのではないよ、私の言い方が悪かったのかい? だってお前はただの人ではないもの。あいのこなんだろう? おや、知らなかったのかい。そりゃあ悪かったね、知らないままでいれば、良かったのにねえ。知りたいだろう? 知りたくて泣いていたんだよねえ。お詫びに教えてあげようか。私の姿にではなく、ことばに泣いたお前なら、知らないで泣くよりは知って泣くほうが、まだましだろうからねえ。
 ほら、泣くのをおやめ。本当のことを教えてあげよう。

 聞いた話だから、細かいところまではわからないけどね。
 お前の母親は、生まれつき凍りの星を背負っていたんだよ。
 万年雪を冠した山の上に輝いて、永遠にそこから動かない星だ。それはそれは美しいけれど、芯からいてついた冷たい星なのさ。そんな星の下に生まれたから、女はずっと凍えていたけれど、生まれつきそうだったからね、自分が凍えていることにも気がつかなかった。
 凍えた人間はさ、触れると冷たいから、抱きしめるのにはちいとばかり勇気がいるよねえ。生みの親はそれができずに子供を捨てた。心あるものならば、そんな子供を放ってはおかないだろう? たくさんの人間が、手を差し伸べたのさ。けれど子供はずっとひとりだった。そばにいることはできる。肩をたたいて、背を押してやることもできるよ。けれど、抱きしめて暖めて溶かしてやることは誰にもできないんだよ。
 ただし、本当に溶かしてしまったら大変だけれどね。命の芯から凍っているのだから、溶けたら溺れてしまうだろう?

 とにかくそんな子供が大人になって、お前の父親に出会ったのさ。あの男も不思議な人間でね、熱を感じないんだよ。熱さも寒さもあたたかさもすずしさもわからない。
 だから縁がうまく結べない。触れれば肌になじむ、抱きしめれば心地よいけれど、それだけだ。
彼は熱さも冷たさも、熱を持つどんな星の光も届かない場所で生まれたんだろうね、よく知らないけれど。ああ、悪く思わないでおくれよ、お前の父親のことは、誰にもよくわからないのさ。

 だけど、お前の母親は違った。この男に熱を見出した、唯一の人間だった。自分が凍っているからさ、男をあたたかく感じたんだろうね。男のほうも、熱を感じないものだから、凍えることなく女を抱きしめてやることができた。かといって女を暖めることはなかったし、溶かすなんてもってのほかだ。けれどそれで良かったんだよ。内側に寄り添うだけで十分だった。互いにとってこれ以上の相手はいなかっただろう。男にとっても女にとってもいい縁だった。

 それでお前が生まれたのなら、なにもいうことはないんだけれどねえ。それなら邪道でもなんでもない、ちょっと不思議な星巡りの子供ですむんだけれどねえ。そうじゃあないんだよ。
 何事も、そう上手くはいかないものだねえ。お互いが、お互いを手に入れる前に、男は死んでしまったのだから。
そうして片割れを失った女はやっと、自分が芯から凍えていることに気がついたのさ。

 お前の母親が、あるいは父親が何をしたか。それこそが邪道なのさ。細かいことはわからない、女があちらまで追いかけていったのか、男がこちらに戻ってきたのか、他に方法があったのか。とにかくお前の母親はお前を生んだ。死んだ男の子供をね。

 お前はしびとの子なんだよ。これが、私の知る真実だ。



3:

 誰そ彼時、とはよく言ったもので、遠くからこちらへ向かってくる人物の顔は、奇妙にのっぺりとしていて判然としなかった。
 真人はへしゃげたガードレールにもたれたまま、見るともなしにそれを眺めていた。古い友人と会う途中の道は、急カーブになっている崖道にさしかかると、目の前に突然海が広がる。陽はすでに落ちて暗くなる前のぼんやりした光の中、海はまるで眠りに落ちよううとするかのように、緩やかに波打っていた。その景色に心引かれて愛車を降りた真人は、硬質な足音を耳にしてふと振り返ったのである。
 いつもはそれなりに車やバイクが走る道路だが、今は猫の子一匹通らない。その二車線道路の真ん中を、人影はまっすぐに歩いてきた。中肉中背の男で、ありふれた黒いスーツを着ている。歩く姿は決して若くないが老いも感じさせない。朝にはぴかぴかに磨き上げられていたであろう革靴が、一足ごとにこつん、かつんと硬い音を波間に響かせていた。

「村手、真人、さん、で、いらっしゃいますか?」
 一般的に会話をするときの距離よりはずいぶん遠い地点でその人物は立ち止まり、上体を微妙な角度にひねって慇懃にこう言った。真人は目の焦点をぼんやりとさせたまま、軽く顎を引いてそれに答えた。

「ああ、よかった。わたしは、雲財暮光氏に頼まれて、あなたを捜していたのです」
「……暮光に?」

 真人はゆっくりと男の顔に焦点を合わせた。値踏みするような厳しい視線に毛の先ほども驚いた様子を見せず、彼はそうです、と頷いた。
「ええ。3年前、お亡くなりになった、雲財暮光氏です」

 ああよかった、やっとみつかった。そう呟いて、不審な男は内ポケットに手を入れると、ごそごそとなにかを探しながら真人に言った。

「あの方には以前命を助けていただいた恩がございましてね。向こうで再会できたときには本当に驚きました。嬉しいというのも不謹慎ですが、嬉しかったですよ、懐かしくてね。それで色々とあったんですが、裁判で私の生まれ変わりが決まったときにね、どうしてもこれをあなたに届けてほしいと頼まれたのですよ」
「は?」
「もちろん快諾いたしました。生きていた頃には何のご恩返しもできませんでしたからね。ところが、私が一人前になるまで、思ったより時間がかかってしまいまして。いやあまさか私ももう一度同じものに生まれるとは思いませんでした。前の記憶なんてそんなに残るものではないし、暮光氏の顔もそろそろ霞んできたのて、本当に焦りましたよ」

 わけのわからないことを延々とまくし立てた男は、ふと口をつぐむと、ああ、あったあったと言って、そっと握った手を内ポケットから引き抜いた。もう一方の手も添えて、大切そうにそれを真人のほうへ差し出す。

「これも、そんなに長い時間もつようなものじゃあないのでね。今日あなたを見つけることができて本当によかった。これが、暮光氏からあなたへの届け物です」

 真人は無言で男を見た。男の細い目はまっすぐに見つめ返した。

「大切なものです、どうか受け取ってください」

 優しい声に背を押されるように、真人は一歩踏み出した。それを受け取るために2,3歩足を進め、こわごわと両手を差し出した。
 羽根よりも軽く掌に載せられたそれは、小さな丸いかたまりだった。とろりとした、少し緑がかった乳白色の石のようなものは、真人の皮膚に触れると吸い込まれるように溶けて消えてしまった。
 それは消えたのではなく、真人のなかに受け入れられたのだと、確かに感じさせる温度が掌から広がっていく。これが何なのかは知らないけれど、暮光を思い出させるぬくもりを感じて彼女は我知らず微笑んだ。

「……ありがとう」
「お礼には及びません。約束を果たすことが出来ましたので、私もほっとしています」
 男は目を細めて嬉しそうに笑った。深々とお辞儀をして踵を返しかけるが、突然ピンと背筋を伸ばして振り返る。

「ああ、いけない、忘れるところだった。暮光氏からはもう一つ預かり物をしていました」
「なんですか?」
 男は眉根を寄せてしばらく記憶を捜すように黙り込むと、

「……暮光氏はこう言いました。『僕だって、けっして君に負けない』」
 一言ずつ、注意深くゆっくりと発音した。

「一言一句、間違いなくお伝えしました」
 男はそう言って、もう一度深くお辞儀をすると、くるんと宙返りをして走り去っていった。軽やかな足音とともに揺れながら小さくなっていく尻尾を見送る真人の目は、数秒もクリアな視界を保つことができなかった。

 雲財暮光を失って初めて、真人は声をあげて泣いた。

おわり

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