シーユー、シーユー


「あ」
 隣のロッカーを使っていた姉が突然素っ頓狂な声をあげたので、私は驚いてシャツのボタンを掛け違えてしまった。
 横を見ると、ディズニーの猫が描かれたステッカーが目に飛び込んでくる。私が住んでいたアパートには、こともあろうに風呂がついていなかったので、入浴料二三〇円のこの銭湯には毎日のように足を運んでいた。時折遊びにくる姉とも度々ここへ足を運んでおり、使うロッカーもいつの間にか決まっていて、このシールも以前来たときに姉が勝手に貼ったものだった。
「どうしたの?」
「入浴料、ギザギザの十円玉で払っちゃった」
 ジーンズを穿きかけた半端な格好で、彼女は悲しげにため息をついた。私はボタンを掛けなおしながら、ふうん、だかへえ、だか適当に相槌を打った。
「老後の楽しみのために、集めてたのになあ」
 そうぼやきながら、姉はジーンズのベルトを締めると上半身は下着のままで、やや乱暴にロッカーの扉を閉めた。そして私のほうを向いてロッカーにもたれかかる。服は上から着る主義の私は彼女を無視してスカートを穿いた。
「五十年位して価値が上がったら、高く売り払おうと思ってたのに」
 まだ言ってる。
 私はバスタオルを畳みながら、「一枚くらいいいんじゃない」とたしなめた。
「それに、ギザギザの十円玉の中でも価値が高い年号は二つか三つだったと思うよ」
「さっきの一枚がそれだったかもしれないじゃない」
 温泉で上気した頬を膨らませ、彼女は大人気なく反論した。姉はその童顔にあわせて中身もやや幼稚で、しかもつまらないことにいつまでも拘泥するのが悪癖といえば悪癖だった。
「ま、あきらめなよ」
 私はといえば、見た目も中身も年相応に大人だし、自他共に認めるあきらめのいい性格である。ロッカーを閉めてドライヤーのある洗面室のほうへ歩きだすと、姉は合鴨のヒナのように私の斜め後ろをついてきた。
「そのお金でね、旅行へ行きたかったのよ」
「旅行ならいつ行ってもいいじゃない」
「老後じゃないとだめなの!」
 隣同士でドライヤーを掛けながら、鏡越しに目を合わせて話す。姉はすでに、払ってしまった十円玉ではなく、旅行に行きたい話に意識が移っているようで、ギザギザの十円玉なんて正直どうでも良かった私はこのまま話を戻さないようにしようとひそかに決心した。
「どこへ行きたいの?」
 彼女はうっとりと夢見るような目をして、うふふ、と笑った。三十路を目前にしてよくまあこんな笑い方ができるものだ。
「内緒」
 私は半ば以上呆れて、またへえ、だかふうん、だか適当な相槌を打った。
 そしてそのときようやく、私も上半身を着ないで髪を干せばよかったと思い至った。頭に温風を当てたせいで背中がうっすら汗ばんでいる。姉は涼しい顔で冷風を首に当てている。彼女のそんな要領のよさが、時々酷くうらやましくねたましかった。




 銭湯を出てしばらく歩くと、大きな国道に出る。ドライヤーの熱の名残でなんとなく冷たいものが欲しいと思っていると、姉が「アイス買ってくる」といって道を渡り始めた。道を渡ったすぐ先には、牛乳瓶のマークが有名な、全国展開のコンビニがある。
「あ、じゃあ私チョコチップ」
「りょーかーい」
 軽やかな小走りでコンビニに入っていった彼女の背中を眺めながら、私は不思議な感慨を味わっていた。
 姉と私は昔からそんなに仲が良かったわけではない。姉は私を可愛がってくれたがどこへ行くのも一緒、というわけではなかったし、私も姉が好きだったが、もっと好きなものは他にたくさんあった。
 きっとごく一般的な、二人姉妹の関係だったと思う。友達よりは息の合う、けれどもある意味では友達よりも踏み込まない関係。あまり似ていないお互いに対する軽い羨望と嫉妬。
 私が大学生だったときから、すでに遠方で就職していた彼女は数年に一度ふらりと尋ねてきて、数日私の部屋に泊まってまたふらりと去っていくという気ままな猫のようなことをくり返した。そのたびに私の部屋には、姉が持ち込んだわけのわからない不思議なものが少しずつ増えていく。
 鍵の形のアルミに並んだマーブルチョコ。大きくて口の中で転がせない、カラフルな飴玉。プレゼントの包装紙の切れ端。色褪せたレースのリボン。銀の指貫。プラスチックのビーズ。
 どこか懐かしいそれらのガラクタは、これまた姉が持ち込んだ大きなクッキーの缶に詰め込まれていた。お土産、と楽しそうに持ってきたものを缶に入れる彼女の横顔には、いつでまでも子供じみた軽妙なおかしみがあった。
 コンビニの自動ドアが開いて、私は我に帰った。
「チョコチップあったよー」
 道路のすぐ向こう側にいる私に向かってわざわざ叫ぶと、姉はビニール袋を掲げ、笑顔で走ってくる。
 近いんだから歩けばいいのに、と苦笑したとき、視界の端がチリチリと痛んだ。見ると、右手からトラックが走ってくる。結構スピードを出しているようだが、姉の姿は捉えているはずだ。ここは横断歩道ではないから信号だってないけれど、道幅も狭いのだからきっと止まってくれるはず。
 姉をみると、きょとんとしたように道路の真ん中に立ちすくんでいた。きっと渡るか戻るか迷っているのだろう。
 そんなところで突っ立ってたら邪魔だよ。早くこっちに来て。
 そういいたかったのに声が出なかった。のどがひりつく痛みに一拍遅れて、甲高い悲鳴が耳に飛び込んできた。
 なにこれ。うるさいな。誰が叫んでいるのだろう。
 自分の声だと気がつくのに、更に数拍かかった。トラックはスピードを落とさずにこちらに迫ってくる。私の意識は姉に向いていたけれど、意識の外ではそれをしっかりとらえていたのだろう。絹を裂くような、という表現がぴったりな絶叫は、ひどく現実離れしていた。
 その瞬間は酷くゆっくりとしていた。トラックは急ブレーキを踏んだらしく、轟音と共に止まったが、衝突を回避することはできなかった。姉はきょとんとした表情のままで倒れ、その傍らにつぶれた袋が転がった。私が小さい頃から好きだったチョコチップのアイスクリームが姉の血に染まっていくのを、私はなすすべもなく見ていた。


***

 冷たい冬の空気が足元から忍び寄ってきたので、転寝をしていた私は緩慢に顔を上げた。
 枯葉の匂いが夫の帰宅を知らせてくれる。気がつくとあたりはすっかり暗くなっていて、体の芯をゆっくりと冷えの波が走っていった。
 ソファから恐る恐る足を下ろし、冷たい床を小走りに壁際のスイッチに向かう。のばした指がそれに届く前に、カチ、と小さい音がして、やわらかな灯りがともった。
「ただいま」
 台所経由で今に入ってきた夫が、穏やかに言いながら居間に入ってきた。私は苦笑しながら「おかえり」と返し、居間の灯りをつけた。
「寝てた?」
「うん、うっかり」
「冷えてない?」
「大丈夫」
 伸びをしながらテーブルに向かい、ダイニングテーブルの下からスリッパを発掘し、コーヒーメーカーに粉を入れる。週末は夫が夕食を作ることになっているので、彼はカウンターの向こうでエプロンをつけ、買ってきた材料を並べ始めていた。
「あ、十円玉、入れといた」
「ありがとう」
「・・・大丈夫?」
 夢の続きを微妙に引きずっている私を案じて、夫は首を傾けた。つられて首を傾げた私は、あいまいに笑ってみせた。




 事故にあった姉は数ヶ月の昏睡状態を経て、一塊の灰となって両親のもとへ帰っていった。私は彼女の集めていたガラクタたちをほとんどもらいうけ、そして数年をかけてそれらを整理して、もとの生活を取り戻していった。今の夫と交際を始めたのは、その頃のことだ。
 縁がギザギザの十円玉を集めているの。
 初めて一緒に買い物へ言ったとき、私は何気なくそう言った。そのときは、その言葉は嘘だった。姉が集めていたことをふと思い出して、言ってみただけだ。
 彼はそう、と頷いて、もらったばかりのお釣りのなかからそれを探し出し、私の手をとってそっと載せた。その手はとてもあたたかくて、私は急に申し訳なくなった。
 次に会ったときも、その次も、彼は縁に特徴のある十円硬貨を探してくれた。私は、嘘だと言えなくなってしまった。貯金箱に入れることにしたそれは、どんどん溜まっていって、その重みはそのままそっくり、私の胸にのしかかる。
 ギザギザの十円玉を集めているのは、集めていたのは、私ではなくて姉なのに。
 これが贖罪のつもりだとすれば、私はなんとあさはかで愚かしいのだろう。


 罪悪感のような、嫉妬のような、そんな重苦しい感情も今はない。買い物をするたび、私のためにせっせとお釣りを検分している夫を好ましく思うし、いまや文鎮のようにずっしりと重くなった貯金箱にも愛着を感じている。
 後悔はしていない。ただ、時々思い出すだけだ。
 私はあの時、姉を負ってしまったのだということを。



「もうしばらくして、コレの価値が上がったら、」
 ギザギザの十円玉を手に、突然そんなことを言い出した私に、彼はちょっと驚いたように眉を上げて、ニンジンを剥く手を止めた。
「全部売ったお金で、旅行へいこうか。老後の楽しみに」
「そうだね、いい考えだ」
 あの時の私と違って、夫はやわらかく笑って言った。
「どこへ行くの?」
「さあ、どこへ行こうか・・・」
 私も笑って答える。胸の痛みは甘みを帯びて、それでもあたたかく私の中を巡っていった。

(See You,Cu)

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