空は青く晴れ、風は穏やかに凪いでいる。
時は春、絶好の行楽日和だ。
リンコは濡れ縁に座り、ほろほろと散る花びらを見るともなしに眺めていた。投げ出したリンコの足には春の日差しがあたたかく降り注いでいる。彼女は小さくあくびをした。木造平屋のこの家では、他よりも時間がゆっくりと流れているような錯覚に陥ってしまう。
「リンコちゃん、ここにいたの」
穏やかな声に振り向くと、いとこのしいらが微笑んでいた。
しなやかな仕草でリンコの隣に腰掛けると、しいらは手に持っていた盆を置き、目の前の花景色にうっとりと見入った。
庭には散る花びらが不思議な幾何学模様を描いている。花々の甘い香りが鼻腔をくすぐる。どこかで鶯が一声高く鳴いて、再び静寂が訪れた。
リンコはふとつぶやいた。
「早いものだね」
急須のお茶を二つの湯呑に注ぎながら、しいらは頷いた。
「もうひと月経つのねえ」
リンコは返事をするかわりにひょいと肩をすくめ、受け取ったお茶に口をつけた。
二人の祖母であり、家の持ち主でもあったカメは、冬とともにこの世を去った。リンコとしいらは遺品を整理するために、この家で春を迎えることにしたのである。
高齢だった祖母の死は、悲しいことではあったけれども、季節の移り変わりのように自然な成り行きでもあった。冬の寒さに身を縮めるような悲しみは、春の訪れとともに少しづつ綻んでいった。
「不謹慎かもしれないけれど」
リンコはまた、ぽつりと呟いた。
「ここにいると凄くのんびりできるよね」
「たしかにそうね」
しいらは楽しそうに笑った。
「昔から、どんな時でもここに来ると不思議にのんびりできたものよね」
穏やかに答えるその笑顔がふと、いぶかしげな表情に変わる。しいらは首を傾げながら湯呑を盆に戻した。
「リンコちゃん」
「え?」
「聞こえる? 水の音がするの」
リンコは耳を澄ませてみた。確かに、かすかなせせらぎが鼓膜をくすぐる。
「ほんとだ。でもおかしいな、このへんに川なんて…」
ないはずなのに。
言いかけた言葉をリンコは呑み込まなければならなかった。
目の前にある花びらの絨毯が、湧き出る水に翻弄され新たな模様を生み出している。小さなせせらぎはやがて水音に呑み込まれ、透明な水はこんこんと湧き出でて、見る見るうちに庭は濡れ縁の高さぎりぎりまで水没してしまった。
水の音と匂いに圧倒され、思わず目を閉じる。
すると水音が止み、
「ごめんくださいませ」
玄関から涼やかな声がした。
目を開くと、庭から水の気配は掻き消えていた。桜の花はさらりと庭をなでて不思議な幾何学模様をふたたび描いている。二人は一瞬視線を交わし、無言のうちにリンコが応対に出た。
玄関先には女性が二人立っていた。
二人はどちらも大変美しい、似通った顔立ちをしていた。一人は紫、もう一人は青の色無地を着て、弔意を表す黒い帯を締めている。
紫の着物を着た女性が、涼やかな声で言った。
「突然失礼いたします。わたくし、みぎわと申します。これは娘のなぎでございます。遅ればせながら、お線香をあげさせていただきにまいりました」
二人そろって丁寧にお辞儀をされ、洪水の余韻に浸ってぼんやりしていたリンコは慌ててお辞儀を返した。
「孫の、リンコです。どうぞお上がり下さい」
リンコは磨き上げられた廊下を通って、二人の弔問客を仏間に案内した。みぎわとなぎは、カメの遺影をしばらく見つめていたが、やがて丁寧に線香をあげると、長い間手を合わせた。
しいらがお茶をもって仏間に入ってくる頃、ようやく顔を上げたみぎわがふと呟いた。
「カメどのには、ほんとうにお世話になりました…」
「…そう言っていただけて、故人も喜んでいると思います」
このひと月で覚えたフレーズに、心を込めてリンコは答えた。みぎわとなぎは唇をほころばせて微笑むと、仏壇から離れてしいらが設えた席についた。
「孫の、しいらと申します」
「みぎわでございます」
「娘の、なぎでございます」
母親によく似た涼やかな声で言ったあと、なぎはこう続けた。
「実は、今日はもう一つ、お話がございます」
優しい声でみぎわが補足する。
「これが生まれたときに、カメどのに預かっていただいたものがございます。このくらいの大きさの、青い鱗なのですが…」
示されたのは、人の頭ほどの大きさの楕円だった。
しいらとリンコは目を見合わせて、同時に首を傾げた。
「祖母の遺品は、ほとんど整理が終わっているのですが…」
リンコが躊躇いながら口を開く。「鱗のようなものはありませんでした」
「未整理のものも、手紙のたぐいです。それほど大きな鱗でしたら、目につくはずなのですが…」
しいらもそっと言葉を添えた。
預かりものを無くしたとあっては一大事である。リンコは「探してきます」と腰を浮かせた。
「いいえ」
みぎわが笑みを浮かべてリンコをとどめた。「鱗は確かにございます」
「どこにあるかもわかっております」
なぎもにっこりと笑っている。
リンコとしいらは戸惑ってまた目を見合わせた。
なぎが、笑顔のままで言う。
「リンコさま」
「はい」
思わず打てば響くような返事をしてしまったリンコを、しいらがはっとしたように見つめ直す。
「もしかして」
「ええ、カメどのは、あなたのお名前に、鱗をお隠しになったのだと存じます」
みぎわがさらりと言った。
わけがわからない、という顔で、リンコは二人の弔問客を見た。
「どういうことですか?」
「あなたの守りも兼ねてのことでございましょう」
もっともな問いかけに直接は答えず、なぎは懐紙を取り出した。
リンコは訝しげな様子のまま、差し出されたうす青い紙を受け取る。
「左のくすりゆびで、お名前を」
言われるままに指を走らせると、和紙独特の感覚が、心臓にもっとも近い指を伝った。
"リンコ"
何も含ませていないというのに、懐紙には濃紺の文字が記されている。
なぎはちょっと微笑んで見せると、手をのばして懐紙の上にかざした。すると燐光に似た青い光があふれ出し、綴られた文字を変化させていった。
"鱗 コ"
「えっ?」
「まあ…」
リンコとしいらはそれぞれにおどろきの声を上げた。
変化はまだ終わらない。そのままなぎが手を上にひくと、文字はぶわりと宙に溶け出て鮮やかに輝きだした。
やがて光ははっきりとした輪郭を持ち始めた。丸みを帯びた、先の細い、人の頭ほどの大きさの、まごう事無きそれは鱗だった。
「綺麗…」
ため息のような声でしいらがつぶやいた。なぎは嬉しそうに笑うと、鱗を華奢な喉に押し当てた。
一瞬、荘厳かつ優美な竜の幻覚が見えた。
目にも鮮やかな青い鱗がきらきらと輝いている。金色の瞳は優しい光を湛えてこちらを見ていた。
喉には、逆さに生えた鱗が光っている。
『確かに、お返しいただきました』
『有難うございました』
もう一頭、こちらはつややかな紫の鱗を纏った竜が現れ、一度だけくるりととぐろを巻いた。
『また、お目にかかりましょう』
また水が押し寄せてきた。最初はひたひたと。だが徐々にこんこんと。轟々と流れる奔流の激しさに二人は思わずぎゅっと目をつぶる。
澄んだ水の匂いがした。
二人が恐る恐る目をあけてみると、すでに水は引いており、客人の姿はもうなかった。
「なんだったんだろう…」
リンコが呆然と言った。
「めったにない体験だったわね」
しいらも同様だった。
二人はしばらくそのままぼんやりと座っていたが、ややあってしいらがあ、と声をあげた。
「リンコちゃん、これ」
卓上に置いてある、うす青い懐紙。
「夢ではないみたいよ」
リンコの字で"コ"とだけ記された紙をそっと手にとり、しいらは祖母そっくりに微笑んだ。そのまま仏壇に向かい、遺影の前に懐紙を備える。
「おばあさまは、不思議なお知り合いをお持ちだったのね」
しいらはそう言って立ち上がると、出て行きざまにリンコの頭を軽く撫でていった。
軽い足音が遠ざかっていく。リンコはゆっくりと立ち上がり、広縁に通じる障子を開けた。そのまま窓を開けてみる。柔らかい風はほのかな草の匂いを運んでリンコの頬をくすぐった。どこからか花びらが降ってきて、畳に不思議な幾何学模様を描き始めた。
時は春。穏やかな午後の出来事である。
おわり
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