子どもばかりの食卓なので


 室生透太はいつも料理をしながら鼻歌を歌う。夕夜は大抵その曲を聞いたことがあるけれど、それがなんという名前の曲なのかはめったにわからない。
 台所からはバターの溶けるいい匂いが漂ってくる。
 透太が夕ご飯を作っているあいだ、夕夜と梨姫は大きなテーブルに向かい合って宿題を解いていた。国語と生活は比較的早く終わって、後回しにしていた算数になかなかの時間と労力がかかっている。
 緑は鼻歌を歌いながら(透太とはまた違う曲だ)、バスタブの縁に頭を持たせかけて水風呂を堪能している。
「九ぶんの四十三はー?」
 梨姫が消しかすをとばしながら呟いた。頭をかりかりと鉛筆でかきながら、夕夜がえー、と唸り声をあげる。
「くご四十五の、くし三十六だから、四と……。四十三引く三十六って」
「七」
 緑がのんびりと助け舟を出して、暗算が苦手な夕夜はようやく「四と九ぶんの七」という答えを導きだした。
「よっしゃできた! ありがと緑くん」
「どういたしまして。ねえそのプリント、裏にも書いてない?」
「えっ? あっ!」
「げっ」
 夕夜と梨姫は算数が苦手なのだ。見なかったことにしてしまおうかとも思ったが、そういうわけにもいかず、裏面は応用問題だったのでさんざん手こずって、いつのまにか雨戸が閉まってリビングには灯りがともされていた。
 プリントにかじりついて猫背気味になっていた夕夜が、鉛筆を放って大きく伸びをした。
「今度こそ終わったー! てか、おれに計算させてばっかじゃなくて、少しは自分で考えろよ梨姫」
「考えてわかんないから聞いてんの」
 藁半紙を破らんばかりの筆圧でがりがりと答えを書き込みながら、梨姫は口をとがらせる。
 夕夜はむっとして言い返そうとしたが、それよりおなかが空いていたので自分の散らかしたぶんを片付けることにした。程なく宿題を終えた梨姫もそれにならう。ちょうど天板を拭き終えたタイミングで、透太が台所から顔を出した。
「出来たよー」
「はーい」
「待ってました!」
「やったオムライスだ!」
 4つのオムライスを大きなトレーに載せてきた透太の周りでひとしきり騒いでから、梨姫と夕夜が残りの皿を手分けしてテーブルに運ぶ。
「ねえケチャップやっていい? 今度こそ名前かく!」
「あ、あたしもやりたい!」
「二つずつやれば? かけ過ぎ注意な」
「やった!」
 本日の夕ごはんは、切り乾し大根入りのオムライスと、乾燥トマトを入れたコンソメスープ、冷凍ほうれん草と人参とチーズのホットサラダ。
 給食委員よろしくメニューを紹介して、透太はちょっとため息をついた。
「生野菜が全然ないってひどいよ。庭に畑作ったら?」
 いつの間に水風呂から上がったのか、着替えてきた緑が、そうだね、と笑って椅子に座った。四人はまるで家族みたいにテーブルを囲み、「いただきます」と声をそろえる。
 夕夜はオムライスを一口食べて、おもわずうっとりしてしまった。梨姫も幸せそうに山盛りのせたスプーンを口につっこんでいる。夕夜と梨姫は、卵料理が大好きなのだ。
「やっぱりオムライスは特別だよなー」
 緑が起きたから特別にオムライスなのだと信じて疑わない夕夜は、そう言ってもう一度うっとりした。ご飯を包んでいる卵がなぜ破れないのか、夕夜にはさっぱりわからない。お店で食べるようなとろとろの卵ではなくて、しっかり焼いてあるのにふわふわな食感なのが、透太のオムライスのすごいところだ。
「おいしいね、きょう目が覚めてよかったな」
 小皿に取ったサラダを食べながら、緑はにこにこしている。緑は一口が小さいので、オムライスの山はまだあまり崩れていない。
「透太は本当においしいごはんを作るねえ」
「料理好きだから」
 誉められてまんざらでもない透太は、目を細めて笑った。実際のところ、透太は小学生とは思えないくらい料理が上手だった。小さい頃からおばあさんに家のことをひととおり叩きこまれてきた上に、親が留守がちの夕夜や梨姫の家で実践をかさねるうちに、めきめきと腕を上げていき、今や夕夜も梨姫も緑も、透太自身でさえも、味覚の基本に透太の料理が染み付いてしまっている。
「しばらく寝てたから、何回か食べそびれてるのかなあ」
 だったら残念だなあ、と、どこかのんびりとした様子で言いながら、緑はつついて小さくした人参をフォークにのせた。
「緑くん、ご飯の匂いで目が覚めればいいのにね」
「そうだね」
 軽い調子でやりとりを終えてから、本当にそうならいいのに、と夕夜はしみじみとそれを噛みしめた。


 初めて緑が「お人形」になる瞬間に居合わせた時のことを、夕夜は今もよく覚えている。
 まだ4歳か5歳か、ひょっとするともっと小さかったかもしれない。そんな小さな頃から、透太と梨姫と緑と夕夜はなにかと一緒に過ごしていた。あの時も例に漏れず、4人は透太の家で遊んでいたのだ。
 コツン、という音が、広い板の間に響き渡った。さっきまで楽しそうに絵を描いていた緑の手から、クレヨンが滑り落ちたのだ。すぐとなりで一緒に絵を描いていた梨姫が驚いて名前を呼ぶが、返事をしない。いつもなら、律儀なくらいいちいち返事をしてくれるのに。
 おかしい、とはっきり思った。顔をのぞき込もうとしたけれど、緑は夕夜なんか見えていないみたいにそれを遮って、急にすっくと立ち上がった。
 名前通りのうすみどりをした両目は、まっすぐにどこかを見ているようにも見えるし、ただ開いているだけのようでもあった。止めようと肩にかけた透太の手を不思議とやさしく、けれどもキッパリとした仕草で外すと、緑ははだしのまま縁側から庭へ降りてしまった。あまりのことに二人が呆然として見ているうちに、緑の小さな体は庭の奥へと吸い込まれていく。
 透太の家の庭はそのまま裏の雑木林に繋がっている。姿を見失う寸前に我に返り、慌てて後を追いかけると、緑は朽ちた大木にもたれかかってぼんやりと座っていた。名前を読んでも、肩を揺すってもこたえない。けれど腕を引いて連れ帰ろうとしても、まるで根が生えたかのように動かなかった。
 ゆっくりと瞬きを繰り返し、静かに息をする緑は、そのまま本当に木に溶けこんでしまいそうで、夕夜はとても恐ろしかった。


(結局透太がおばあさんを呼びに行って、それで放っておくことになったんだっけ。)
 あのときの途方に暮れた心持ちを思い出しながら、夕夜はふと、その場に梨姫がいただろうかと考えた。もちろん一緒にいたはずだ。けれども夕夜には、あのとき梨姫が何を言ったのか、どんな顔をしていたのかが、全く思い出せなかった。
 今はどうだろうと梨姫を見る。梨姫は「いただきます」以来ひとことも喋らずに食べていたが、今もまた大きく口を開けてオムライスを頬張ろうとしていた。一口が大きい割に早食いでないのは、よく噛むからだと以前透太のおばあさんが言っていたのを覚えている。いつもと変わらない、なんでもない表情だ。
 それを見て思い出した。梨姫はいつもと変わらなかった。何も言わず緑のあとを追いかけて、透太がおばあさんを呼びに行っている間なんて、恐ろしくて泣きだしてしまった夕夜の手をしっかりと握っていてくれた。
 スープをぐるぐるとかき混ぜながら、まったく梨姫らしいなあと夕夜は笑いそうになった。ごまかすようにあたたかいスープを飲む。トマトの風味が鼻を抜ける瞬間、もう一つ思い出して夕夜は氷を飲み込んだような冷たさをみぞおちに感じた。
 梨姫はまったくいつもどおりというわけでもなかった。緑が庭に降りてから、透太のおばあさんが駆けつけてくれるまで、梨姫はいちども緑に呼びかけたり、触れたりはしなかったのだ。
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