あといのあいだ


 喘鳴を子守唄のようにききながら眠っている。

 二人きりの部屋は妙に広く、それが少し厭わしくて、わたしは部屋の隅のソファで丸くなっていた。
 眠りは浅く、夢も見ない。おまけにしばしば咳き込む声が聞こえてきて中断される。煩わしい目覚めは次の眠りをも不機嫌なものにして、そしてその繰り返しだ。
 同居の男は、ここ数日ひどい熱を出して寝込んでいるようだった。男の知人がつぎつぎとやって来て、熱を測らせたり薬を飲ませたり粥を食わせたりして、そうして深刻そうに囁き交わす言葉の断片からわたしはそれを知った。
 とはいえ普段からほとんど干渉のない間柄である。わたしはいつものように眠ったり目を覚ましたり、男の様子を見に行ったり男の知人におざなりな挨拶をしたりしていた。
 以前はーーわたしは再びうとうとしながら考えたーー以前はもっと、違った生活を送っていたような気がする。
 男がやってくる前、ここには少女が住んでいて、わたしたちはまるでひとつの生き物のように寄り添って暮らしていた。
 少女はあたたかく、柔らかくて、すこし甘い匂いがした。声は小鳥のさえずりににて、少女が呼ぶわたしの名前はまるで美しいひとつの歌のように耳をくすぐった。
 わたしたちはいつも機嫌良く、甘いミルクと、柔らかい肉と、少しの果物を食べて暮らしていた。
 随分長い時間をそうやって過ごしてきたが、少女は突然姿を消した。あるとき目を覚ますと、わたしは部屋にひとりきりで、少女の姿はどこにもなく、いつでもぴかぴかに磨き上げられていた皿には肉の滓がこびりついたままになっていた。
 わたしは少女の姿をもとめて部屋の中を歩きまわった。呼ぼうとしてはじめて、少女の名前を知らなかったことに気がついた。
 部屋の中はいつものように、少女のすこし甘い匂いで満たされていたけれど、とうとうその姿も、その声さえも、わたしは見つけることができなかった。
 ぐるぐると部屋の中を歩き回って、とうとう疲れ果てたわたしは肉の滓を舐めながら、少女は死んでしまったのだと悟った。


 そして男がやってきた。
 少女を失ったわたしは、ほとんどの時間を眠って過ごしていた。喉の乾きや餓えを感じることはなかったが、時折ひどくミルクが恋しくなり、知りもしない少女の名前をちいさく呼んだ。
 部屋の中にはもう少女の名残などなかったが、それでもわたしはそこから動くことができずにいた。
 そんなあるとき、何の前触れもなく部屋の空気が動き、煙ったようなひどい匂いが鼻先に触れ、男が部屋に入ってきた。わたしは驚いて身構え、男を睨みつけた。
 男はただわたしをじっと見おろした。わたしは負けじとその目を見返した。
 一瞬とも永遠とも取れる時間のあと、わたしたちは同時に目をそらした。わたしは部屋の隅へ歩いていき、ちらと男を振り返ったが、男の関心はすでにわたしから離れて持ち込んだ鞄に向けられているようだった。
 わたしと男がまともに目を合わせたのはそのときだけだ。そしてそのときから、男はここに住み始め、わたしの世話を始めた。
 男はわたしにほとんど言葉をかけない。ときおり、じっとわたしを見るだけだ。
 わたしが食事をしているとき、うたたねをしているとき、男は熱心な視線を向ける。何か大切なものを探すような用心深さで、なにも見落とさないように慎重なやり方で。そしてわたしが見られていることに気づいて男を見ると、ふいと顔をそらす。意識を男から離すと、またわたしを見る。
 そんな風に視線を向けられることは、わたし自身も驚いたことに、けっして不愉快ではなかった。
 わたしに注がれる男のまなざしはいつだってある温度をもっていた。熱、というには生温く、けれど離れていけば肌寒いような、ぬるま湯よりもほんの少し暖かい、そんな温度だった。


 喘鳴はつよくよわく変化しながら止むことがない。
 しかし匂いはつよくなった。
 私はほとんど眠りに落ちかけながら、その淵に爪を引っかけて考え続けた。
 命の有る限り、あるいは肉が腐り落ちてしまうまで、わたしの鼻は煙ったような男の匂いを拾いつづけるだろう。
 寝込んだ時と同じように突然、男が窓を開けて全ての匂いを追い出してしまうまで。




 がたん、と大きな音がした。
 わたしはすっかり眠り込んでいたので、驚いて頭をもたげた。
 男がふらつきながらこちらへやってくる。ソファの横を通り過ぎてそのままシンクにすがりつき、ずるずると膝から崩れて頭を突っ込んだ。どうやら水を飲みたくて無理に起き上がったようだ。
 手探りで蛇口をひねり、むさぼるように水を飲んだあと、男は長くため息をついた。ずるずるとそのまま床に蟠るので、わたしはとうとうソファを離れた。
 浅い呼吸を繰り返す同居人の傍までいくと、ぼんやりと膜を張る目がわたしを見た。顔にかかる息が熱い。熱は下がっていないようだ。
 近距離でわかる程体は高熱を出しているにもかかわらず、そのまなざしはいつもと同じ温度の暖かさを保っていた。
「やあ、ジュディ」
 男は言った。
 ざわり。
 わたしの皮膚がしらず総毛立った。
 男が、はじめてわたしを呼んだのだ。
 知らないはずのわたしの名前を。
「ジュディ」
 男は少し笑って、もう一度同じ名前を呼んだ。それは軽石がざらりとした板目をなぞるように、決して甘くも軽やかでもない呼び方だった。それでもその名前は確かにわたしのものだった。少女が小鳥のさえずりのように呼ぶ美しい名前だった。
「やっぱりお前は、あの子と同じ名前なんだな」
 男はふ、と目を閉じ、すぐに再び開いた。
 そのときわたしは気がついた。
 わたしと同じく、男もまた少女のあたたかさと柔らかさ、そしてあのすこし甘い匂いを知っているのだと。
「にゃあん」
 わたしは一声鳴くと、差し伸べられた男の手のひらに額を押し付けた。
 男の手のひらは熱く、汗ですこし湿っていた。
 わたしはもう一度「なあ」と鳴き、男の指先を舐めた。男はほほえみを浮かべたまま、されるがままになっていた。
「熱が下がったら」
 男は言った。
「君とあの子の話をしたいよ」
 そして男は緩慢に目を閉じた。そのまま息が深くなり、眠りに落ちたのだとわかる。
 男の熱がはやく下がればいい。わたしはこころからそう思った。

(2011.10.10)

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