朝はまだ来ない


 一緒に行こうということは、諦めろと告げるようなものだった。


 女が目を覚ました時、閨はまだ深い夜の中に沈みこんでいた。
 眠りに落ちる前と何も変わらない暗闇だったが、女はかすかな違和感を感じて辺りに目を凝らした。
 隣で眠る男は身じろぎもせず、深い呼吸をするたびに、泥のような眠りの底を目指して潜り続けている。
 薫きしめられた香の甘い匂いと、湿ったような人の汗の匂いが、常のように部屋の中に充満している。
 衛士の焚く松明の炎は遥か遠く、この寝屋までその灯りは届かない。鳥の声も虫の音も、この寝台までは届かない。高貴なる夜はあくまで暗く、そしてどこまでも静かだった。
 しかしその夜はほんの少し、朝の気配を、つまり外の気配を孕んでいた。
 部屋の隅で、質量をもった闇の固まりがゆらりと動いたのを、女は肌で感じ取った。それは音もなく寝台まで忍び寄ると、低い声で「酔蘭公主」と呼びかけた。
 女は返事をしなかった。死んだ呼び名に返す声を彼女は持たなかった。

「私と一緒に行きませんか」

 もういちど、「酔蘭公主」と呼びかけてから、黒衣の侵入者は静かに言った。夜更けに女の寝所へ忍び込んだ男、それもすぐ隣で夫が熟睡している寝台を訪ねた若い男としては、ごくありふれた文句だった。
 けれども情人にたいする駆け落ちの誘いにしては、男の声はあまりにも平坦で、注がれる視線にはどのような種類の熱もこめられてはいなかった。
 女は寝台の上に身を起こしかけたまま、玲瓏な声で「いいえ」と答えた。
 男は黙って頷いた。拒絶を予想していたような態度だった。
 その時、月明かりが窓を刺して、真っ暗な部屋に一筋白い光がさした。寝台の浅い所にそのつま先をのばした月光は、黒衣の男と夜着の女とを控えめに照らし出した。
 磨き上げられた環玉どうしがぶつかりあってたてるような、涼やかで儚いその声に似つかわしく、女は美しい容貌を備えていた。

 傾国の美女である。

 全ての男を夢中にするような、そして全ての女に羨望のため息をつかせるようなその美しい姿態にも、男は眉一つ動かさなかった。ゆっくりと上体を起こして夜着の襟元を直し、寝乱れた髪をかいやる様子を無感動に眺める男の姿は、資産を査定する官吏のように淡々と、そして堂々としていた。



 女はもともと、酔蘭公主という名の、ある国の王の娘であった。
 帝国の領地拡大をねらった遠征の途中、その通り道に存在したというだけの理由で侵略を受け滅ぼされたその国の、彼女は死体にも奴隷にもならずに済んだただひとりの人間であった。
 全てを殺し、奪い、屈服させて火を放たれた宮殿のなか、右手に血刀を、左手に王の首を下げて踏み込んできた侵略者たる帝王を、娘は微笑をもって出迎えた。
 貴人の盛装を身にまとい、華やかな化粧を施した女は、毒気を抜かれて立ち止まった帝王に跪拝し、その靴先に額をつけて恭順の姿勢をしめした。
 血腥い戦場には、まるで場違いな女の美しさに強く心を動かされた帝王は、すぐさまその小さく白い手をとり立ち上がらせて、彼女を新たな妃として迎えることを告げたのだった。

 中指に嵌められた金の指輪が血に染まって、まるで夕日のようだった。
 その手が握る長いもとどり、その先で目を見開く父親の首からしたたる血の匂いを、女はいまだにはっきりと覚えている。
 天から授かった彼女の美貌を最初に賞賛してくれた薄い唇は、色を失って大きく開いたまま赤黒い舌をだらりとぶら下げていて、赤く染まった歯の隙間からは涎と血が混じりあって顎を伝い、石造りの床に滴っていた。
 微笑みの仮面の奥で、彼女は血の涙を流しながら奥歯を強く噛み締めた。
 国を滅ぼされ、命を脅かされる恐怖よりも、略奪者の慰み者になる屈辱よりも、理不尽に踏みにじられることに対する熱く煮えたぎる本能的な怒りよりも、もっと深淵かつ静謐な決意によって、彼女はそのまなじりを綻ばせ、帝王の求めに応じてみせた。
ー私はこの国を滅ぼしてみせよう。何よりも醜悪で愚かしいかたちで。
 花のかんばせと艶麗な姿態を武器にとり、彼女の弔い合戦は孤独に幕を開けたのである。



 男は女の事情を全て知っていた。知っていたので、彼は女を殺すつもりでいた。
 男は恭しいとすら見える仕草で、懐から折り畳まれた薬包紙を取り出し、女のほうへ差し出した。
「これを」
 深紅に染められた薄紙は、その中に劇薬を納めているという印だった。
 女は目の前に差し出された包みをちらりと見て、続いて男の顔を見上げた。
「わたくしは、美しい死など望みません」
 服毒を迫られたとも思えない穏やかさで女はそう言うと、まなざし一つで男の手を押し戻すことが出来るかのように、けぶるような睫毛を伏せた。
 優しげにも見えるまなざしに、傾き始めた月の光が交差する。つかの間沈黙した二人のあいだで、血の色をした小さな包みがなにか尊いもののように微細な繊維を輝かせていた。

「あなたは帝王を誑かし国を滅ぼそうとなさっている。あなたの故国が帝王によって滅ぼされた、その復讐のために」
 毒の包みをのせた手のひらを差し出したまま、男は突然話し始めた。
「現に、あなたはこの帝国に迎えられたその日から、一晩として声がかからなかったことはない。あなたがそういう意図を持って振る舞う以上、帝王があなたに溺れて行くのは時間の問題でしょうね」
 女は黙って男の目を見上げた。彼女の意識一つで、水に濡れた黒曜石のように妖しげな光をたたえるその目は、針の先ほどのあいだ、死者を包む経帷子のように黒く深く沈みこんだ。
 蜂鳥が羽ばたくような瞬きでそれを押し込めると、女は薄く微笑んだ。男はそれに対して何も反応を返さずに、言葉を続けた。
「そうしてあなたは、ゆっくりとこの帝国を腐らせていくおつもりなのでしょう。勇猛で知られた帝王を、女色に耽る暗君に仕立て上げた暁に、あなたは稀代の毒婦として嬲り殺される。あなたの名は戦慄と侮蔑と好色をもって、後世にまで伝えられていくことでしょう。
 ―私は、それを見るに忍びないのです。あなたがなさらずとも、この帝国を滅ぼそうとしている人間はいくらでもいる。帝王に一矢報いんとして、心を隠し彼に近づき、腹心のような顔をして喉笛を掻き切る機会を窺っているものは数えきれません。あなたが汚名を被る必要などないのです。」
 まるで、女にたいして特別な想いを抱いているかのような、聞きようによっては女をかき口説いているかのような台詞を、まったく平坦な調子で男は口にした。女を見つめる男の目は乾いてこそいなかったが、あくまで眼球を保護するためだとでも言わんばかりの水膜を薄く巡らせるにとどまっていた。
 その一方で、女の目はたっぷりと涙の膜を纏っていた。それは女の堅牢な鎧であり、そして鋭い剣でもあった。そしてそれが、両者の立ち位置の違いを雄弁にあらわしていた。
「わたくしは、汚名を望みます」
 女は甘やかな声でそう言った。
「この強大な帝国が、この勇猛なる帝王が、たった一人の女のために、全てを失い腐り落ちていくさまをこの目で見届けたいのです。嬲り殺されてこそわたくしの本望、全てはこの毒婦のためにと罵られてこそ、わたくしの復讐は成功をおさめるのです」
 声の甘さには全くそぐわない、陰惨なことばを口にしているというのに、女の言葉は睦言のように柔らかく瑞々しい響きを持っていた。微笑をはっきりと笑みに昇華させて、女はまるで愛を囁くかのような目をして男に告げた。
「この帝国には、なによりもだらしのない、愚かしい最後を遂げてもらわなければなりません。そのためならば、わたくしはどんな汚泥も喜んで飲み干しましょう」



 随分と長い沈黙の後、男はため息をつくついでのようなかすかな声で、もうやめましょうと言うと、ようやく赤い包みを黒衣の懐に戻した。
 懐から空の手を出した男の口もとには、初めて感情らしきものが浮かべられていた。わずかに眉尻を下げ、唇の両端をほんの少し持ち上げただけで、男はその豊かな感情を示してみせた。その微苦笑につられるように、女はほんの少しだけ打ち解けた声で言った。
「わかっていらっしゃったのに、なぜ、徒労に終わるような真似をなさったの?」
「徒労」
 と男は鸚鵡返しに言うと、たしかに徒労でしたが、と苦笑を目元にまで広げて言った。
「けれど、私はあなたに今死んでいただきたかったのです。美しい帝王の寵姫として」

 あなたが好きです。
 苦笑のついでのような言い方だった。

 月はさらに傾きを強め、豪奢な刺繍に飾られた褥と、そこに半身を起こした女の夜着の胸元を青白い光で染めかえようとしている。女の隣で眠る帝王は、不自然に深い眠りのまま一向に目を醒ます気配はない。肺腑の底から吐き出して吸い込む呼吸音だけが、静かな閨の底に広がっていた。
 そこで女は男が何者であるかに思い至った。誰にも怪しまれることなく、帝王に眠り薬の入った寝前酒を勧めることが出来るのは、身分外の、人間とは見なされない黒子たちだけだ。
 そう思ってみれば、男が身につけている黒衣を、女はそこかしこで見かけたことがあった。身体の一部を切除されたうえで、名前も顔立ちをも覆う布の着いた頭巾を被り、後宮を含めた王宮の雑事を音もなくこなす彼らは、たいていが女と同じ境遇の異国人であった。
 だが、そのような事実は男にとっても女にとっても些末なことであった。

「それで納得しました」
 女はほんの少しだけ打ち解けた声のまま、静かにそう言った。
「あなたがなぜ、はじめに『一緒に行こう』などとおっしゃったのかが」
 本当は、うれしかったのです。
 明日も晴れるのかしら、と言うのと同じ調子で、女は呟いた。目を逸らせも伏せもせず、自在な武器に包まれた目をまっすぐに男に向けたままでいる。
「生まれて初めてでした」
 なにが、と聞くほど男は野暮ではなかった。なぜ過去形なのか、と詰るほど愚かでもなかった。
 薫きしめられて部屋中に染み付いた香の匂いが、男の黒衣にも少しずつ侵攻をはじめていた。朝の気配はまだ遠く、後宮に飼われている鶏もまだ目覚める気配はない。しかし朝の気配は閉め切られた部屋の中にいつのまにか忍び込んでいた。
 女はもう何も言わなかった。男も口を閉じたまま、見上げてくる明眸を見つめ返した。

「最後にもう一度、言ってもよろしいですか?」
 男は生真面目な表情を装ってそう言った。女も真剣なふうを装ってどうぞ、と答えたが、語尾が少し笑みに震えた。
 では、と呟くと、男は身を屈めて女の耳元に口を近づけた。

「私と一緒に行きませんか」
 耳朶を打つささやき声に、女は小さく笑い声を上げた。

 質問の答えは決まっていた。

おわり

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