橋の上で私は待った。雪の降る夜はとても寒くて、私は奥歯を噛みしめながら、首を竦め上着の前を掻き合わせて待った。
 冷たい石橋はしんと静まり返っている。欄干には雪化粧が施されている。石畳は黒々と濡れている。
 私は胸に押し当てた両手をそっと開いて、その中にあるものを確かめた。
 小さな真円の表面に、血の気の引いた唇と、雪風に乱れた髪が映る。角度を開くと蝋のような肌が、続いて細く眇められた目が現れた。
 自分の虚像と見つめ合ったのはほんの一瞬で、私はすぐに手を元の位置にもどした。この動作は五回目だ。長いのか、短いのか。静かに降りしきる雪と、無人の橋と揺らがぬ夜が、時間の感覚を狂わせる。
(はしうらといいます)
 何度も繰り返し思い出して、なお鮮明な言葉がまた脳裏に浮かぶ。
(真夜中がいいでしょう。ひとりで橋の真ん中に立ちます。櫛か、手鏡をもって立ちます)
 私のもちものはとても沢山あって、自分でも把握ができないほどだから、鼈甲の櫛でも螺鈿の手鏡でも、探せばあったに違いない。
 けれども私はそうしなかった。それは私が与えられたものであって、私自身のものではないような気がしていたからだ。
 自分のことを占うのに、人様のものを使うというのは筋違いだ。そう思って私が選んだのは、小さな赤い塗りの手鏡だった。祖母が求め、母に譲られ、私に受け継がれた質素な鏡は、今夜私になにをもたらしてくれるのだろうか?
(橋の上で一番最初に聞いた言葉が、問いへのこたえになります)




 私は深く息を吐いた。白いため息が目の前に広がり、雪に冷やされてきらきらと飛散する。
 そのベールの向こうから、背の低い影がやってきた。今夜ここを人が通るのは六人目だが、みな一言も発することなく外套の襟を立てて足早に去っていく。その人物も無言で私の横を過ぎ去っていった。
 かつん、と硬質な音がして、足下に何かが転がってきた。背の低い人物は数歩先で立ち止まり、きびすを返してこちらに戻ってくる。
 少し迷ってそれを拾う。澄んだ青色をした虹彩にどきりとした。
「いやはや、申し訳ない」
 いつの間にか目の前まできていた人物が、中途半端に広げていた私の手のひらからそっと義眼をつまみあげた。節くれ立った指で球の表面をするりと撫でると、彼は明るい表情でため息をついて見せた。
 白い息が霧のように輝きながら拡散する。
「ああ、これはもう使えませんね」
 その声は、私の耳にまるで託宣のように響いた。
「水晶体に曇りがあるし、網膜も傷ついている」
 いとおしそうに義眼を指で撫でながら、彼はまるで医者のように診断を下した。
「長い付き合いだが仕方がない、捨ててしまおう」
 一人で頷きながら、不意に彼は私の顔を見た。ぽっかりと空いた右の眼窩を努めて見ないようにして、私は礼を失さない程度にその顔を見返した。
「これは失礼、ご婦人の前で長々と独り言など申してしまいました」
 小さな体つきと枯れた物言いに似合わず、彼はとても若い容貌をしていた。左目の澄んだ青に背を押されるように、私の心はある決意をする。
「とんでもない」
 口角をあげ、目を細めて、息をするよりもたやすく浮かべることのできる微笑を顔の表面に描くと、私は柔らかくそう答えた。
「あなたの独り言のお陰で、助かりましたわ」
 男は不思議そうに瞬きをすると、一拍の後に私と同じように柔らかな笑みを浮かべた。そして軽く頷くと、それならよろしゅうございましたと明るく言って、私に背を向けた。こつこつと硬い音が、だんだん遠ざかっていく。
 私は知らず詰めていた息を細く吐いた。白銀の糸はきらきらと光りながら解けていく。
「仕方ない、捨ててしまおう」
 そう口に出すと、今にもこの決意を実行に移せるような気がした。凍えてかじかむ手を外套の中に入れ、つららのように冷たい足をゆっくりと前に踏み出す。
(そのこたえを、是とするかどうかは、あなたしだいですからね)
 警告の響きを含む声はもう霞がかかったように弱く、代わりに男の声が明るく繰り返す。
(これはもう使えない)
 こつん、かつんと、靴の踵が凍った石畳をたたく。
(捨ててしまおう)
 捨ててしまおう。何もかも。
 凍てつく夜の橋を、私はほほえみを浮かべて渡り終えた。

おわり

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