秋の夜長に


 ざざ、ざざざ、ざざ、ざ。
 波の音が規則正しく聞こえている。
 空にはうっすらとした下弦の月が、何かの間違いのように引っかかっている。
 暗い海と黒い空。私の手の先はもう闇に溶けている。見えない目を凝らして沖をにらむ。
 見逃さないようにしなければ、万が一にも帰ってきたら……。
 そんなはずはない、帰ってくるなんて。万が一にもあり得ない。だいたい、あの影だって何かと見間違えたのかもしれないではないか。
 そう、きっと何かの間違いなのだ。だってあの子は、
 あの子は泳げないのだから。





『まって』
 鼓膜に染み着いた声が、波の音に混じる。
『おいていかないで』
 耳を塞いでも大声で叫んでも頭の奥から消えない声。波ならば、洗ってくれると思ったのに。波はあのとき私を助けてくれたのに。





 ざざ、ざざざ、ざざ、ざ。
 ああ。
 あれは違ったのか。
 波は私を助けてくれた、そのこと自体が間違いだったのか。
 波は許してくれないのだ、あのとき私が手を引っ込めたから。


 ――私ひとりなら、この高波で浜に帰れる。
『…ごめん』





 あの子を見捨てた私を波は許してくれない。
 波が助けたかったのは、
 あの子だったのだ。





 ざざ、ざざざ、ざざ、ざ。
 体が冷たくなってきた。
 目の前にあの子がいる。もの言いたげに唇をあけて私を見ている。
 海と同じ色をした波は、私が気づかないうちに、確かな憎しみをもって私を呑み込んでいた。

おわり

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